映画「窮鼠はチーズの夢を見る」二回目を見て(ネタバレ有り)

 

「窮鼠はチーズの夢を見る」とうとう映画公開されましたね!おめでとうございます!!

早速初日、わざわざ有休をとってもう一度観てまいりました!

前回見たときには気づかなかったことがでてきたので、熱が冷めないうちにまとめておこうと思います。

 

※あくまで映像と原作を照らし合わせた個人的解釈です。

前回書いたネタバレまみれの記事を踏まえた内容となっています。

物語は受取手によって解釈が無数に存在するものであり何が正解なのかとかはないと思うので、こういった考えもあるんですね、すっごい妄想爆発してますねという生暖かい目で見ていただければ幸いでございます。

以下ネタバレまみれですのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼恭一の気持ち

初回見たときはなんとなくだかまあ理解できんこともないかもしれない…くらいの恭一の言動ですが、二回目見ていると彼は割と早い段階で今ヶ瀬を特別視しているのではないかな?というように見えました。

女性の前では徹底して優しいキャラである彼が感情を大きく動かすのはいつも今ヶ瀬が相手です。

特に夏生登場辺りからはあからさまに今ヶ瀬が連れてきた相手に嫉妬したり、今ヶ瀬の初体験の話をされて珍しく怒ったりしています。結婚相手の不倫に全く気づきもしなかった人と同一人物とは思えない…

性を超えてまで大したことのない自分を理屈関係なく好きなんだという必死な今ヶ瀬が、彼の世界の中で今まで見たことのない人種だったんじゃないかなと思います。人を好きになるなんて理屈では到底説明できないので、何が本当のきっかけだったかなんてそれこそ恭一にしかわからないですが…

誕生日にものではなく思い出を願う今ヶ瀬に生まれ年のワインを贈った時、来年またあげるからと即座にサラッと言ったり、こういったところからしても彼の中で今ヶ瀬の未来は当たり前のように続くものである認識が窺えます。

今ヶ瀬が帰ってこない中今ヶ瀬の枕に顔を埋めたり、北京ダックを食べに行く時に嬉しそうに無意識に肩を組むところ、たまきにワインのことを聞くときの嬉しそうな顔、「馬鹿だね、お前は」の心底愛おしそうな顔、今ヶ瀬が座っていた椅子に座るたまきを無意識にどかすところ、海辺で今ヶ瀬に恋をする気持ちについて説かれて「あなたには分からないでしょうが」と言われたあと「わかるよ」と穏やかに返すところ、最初今ヶ瀬に見られて嫌がっていたスマホを後々見られても諦めるようになったところ、今ヶ瀬との2回目のベッドシーンで終わりに手をにぎりしめるところ、小さなピースですがところどころに散りばめられていて、恭一は恭一で自分なりに今ヶ瀬を愛して向き合おうとしていたところが見えてきます。というかあそこまで世間体を言い訳に逃げ回っていた恭一が自ら今ヶ瀬にキスをして抱かれに行った時点で彼の中では今後今ヶ瀬といる覚悟が決まったとしか見えない…

今ヶ瀬があなたじゃダメだと言い放つところで、彼なりの言葉や態度で愛を示してきたつもりが届いてなくて(そもそも恋愛脳と言われている今ヶ瀬には全然たりなかったんでしょうね)これ以上自分にはもうどうしてあげることもできないし一緒にいて傷つけるくらいなら解放してあげたほうがいい、と絶望した瞬間にすとん、と表情が抜け落ちるさま、大倉さんあまりに見事な演技だと思います。

別れたあと再会して二番手でいいから、と食い下がる今ヶ瀬に表情を一変させ「お前はもういらない」と冷たく言い放つのも、彼なりに真剣に考えて今ヶ瀬を愛していたのに、今ヶ瀬自身がそれを軽視する発言をしたからだと考えます。

 

▼「人を好きになりすぎると自分の形が保てなくなる」

たまきが発した言葉ですが、この台詞が目立つような演出がされています。

最初今ヶ瀬のことかなとは思ったんですが、後半の恭一のことも暗示しているのではないかなと思います。

前半流され流されを強調されてきた恭一ですが、後半は今ヶ瀬のことを忘れようと付き合って婚約まで行ったたまきとの別れを選んでまで今ヶ瀬を待つことを決めます。今までなら流されるがまま、誰と関係を持っても自然消滅していたであろうに、最後になって自分のエゴを通す姿勢には以前の彼の形はかけらもありません。

同じ時間を過ごして、初めてちゃんと相手と向き合うことを覚えたのに別れを選ばれて耐えがたい喪失感を得た恭一の中で、今ヶ瀬という存在はかけがえのないほど大切で衝動的にならずにはいられない相手へとなっていたんでしょう。

 

▼最愛の人から背を向けた今ヶ瀬

今ヶ瀬は最初に恭一と再会してからは人目も気にせずにラストチャンスと思ってアタックをかけまくっていたと思うんです。そりゃ長年の想い人が現れた上になんだかんだで離婚してしかも推しまくれば流されてくれるかもしれない人となれば夢中になってアタックしまくるでしょう。しかも相手は人の優しさに飢えているのでどんどん自分の手の内に落ちてくる感覚。(ポテトチップスのくだりとか耳かきのくだりとか屋上のくだりとかetc)

幸せを掴みかけている実感を得ている彼に、ままならぬ現実を見せつけたのが夏生との再会です。夏生と再会した時に店で恭一に「お前とオレは違う」という線引きをされますが、本人に言われるのはまだ気持ちの変えようがある希望があります(筋金入りの流され侍ですし…)。

しかし二回目に夏生と再会した時に言い放たれるのは「恭一はハーメルンの笛吹についていく鼠みたいなもんなの、みすみすドブに溺れされるわけにはいかない」という言葉です。夏生という第三者から放たれた「ドブ」という鋭利な言葉によって、彼はようやく恭一だけに向けていた気持ちに急ブレーキをかけ、目線を世間に向けざるを得なくなってしまったのではないでしょうか。そのあとにオルフェという映画の、主人公と違う世界を生きるが故に結ばれたのにも関わらず主人公との別れを選ぶ王女に自己投影をしている演出がなされるのはあまりに辛い…

元カノの夏生という比較できる存在がいて、ようやく恭一が今ヶ瀬を手放し難い存在であると自覚するきっかけになるのもまた皮肉な展開です。

結ばれても、そのことが引っかかっている今ヶ瀬にとってたまきの出現は夏生よりも恐怖だったのではないでしょうか。しかも過去恭一が付き合ってきた女のタイプを考えれば好みど直球ではなかろうかというキャラクターである。

本人の心の持ちようは当人同士のやりかたによってはどうにか変えられるかもしれませんが、絶対に個人の力では変えられないものは世間の目です。マイノリティである同性愛の道に巻き込んでいって本当にこの人を幸せにできるのか、やはりたまきを選んでしまうのではないかという気持ちが今ヶ瀬の中で最高潮に膨らみきっているときに、たまきを庇った恭一を見て選んだ答えが「あなたには俺じゃだめだし、俺もあなたじゃだめです」だったのではないでしょうか。ここで恭一が「そんなことはない」と否定していればまた違った未来があったかもしれませんが、あまりに辛そうな今ヶ瀬を見て恭一は彼との別れを承諾します。あのビンタは「否定してくれ」という今ヶ瀬の縋り付くような恭一への期待を裏切られたからこそ出てきたものだったのかなと思います。

 

▼二番手でいたい

恭一なりに今ヶ瀬を愛し、今ヶ瀬なりに恭一のことを考えた結果終わりを迎えた二人ですが、まあ案の定いい感じになっていた恭一とたまきがくっつき婚約までします。

それが今ヶ瀬と再会して二人はひっそりとヨリを戻すわけですが(最終的にたまきとの別れを選ぶとはいえここの流れはまさにド畜生だと思います)、「たまきとは別れる」という言葉を聞いた今ヶ瀬はまた恭一の元から去ります。

ここで思うのは、今ヶ瀬が街中で懇願した通りに二番手であることを選んでいれば今ヶ瀬は恭一から逃げる事はなかったんじゃないかなということです。

今ヶ瀬にとって最愛の恭一の二番手というのはズタズタに傷つくであろうとはいえ、一番楽なポジションであるのではないかと。上記に述べた通り、彼の世間体を失うことなく、自分で彼を違う世界に引きこんだという負い目は恋人である時ほどは無く彼との繋がりを持つことができる。繋がりだけはどうしても断ち切りたくなかった今ヶ瀬にとってこれほど美味しいポジションはない。

今までの恭一であればこの提案を受け入れていたんでしょうが、彼はもう今ヶ瀬との今後に覚悟を決めてしまっています。その提案を受け入れるはずもなく恭一は今ヶ瀬を選びます。

恭一の中で今ヶ瀬はもうとっくに「例外」になってしまっていたから。

ここが恭一を鏡の向こうの元の世界に戻せる最後のチャンスと思った今ヶ瀬は、前回の別れ時には置いておいて欲しいとお願いしていた灰皿をごみ箱に捨てるという行動をもって恭一に別れを突きつけます。

 

▼海辺のシーンの分割

最後二人で海辺に行くシーンは原作でも大事なポイントとなっていますし、キービジュアルやグッズで多用されているところから見ても映画において非常に重要なシーンです。それなのに、映画版では恭一と今ヶ瀬が別れるシーンでは全てを見せずに一旦切って、映画の最後の最後でシーンの続きを持ってくるという演出をしています。

このシーン自体は今ヶ瀬が恭一に向かって「あなたではダメだ」と言い放ち、苦しんでいるのを見かねた恭一が「もう終わりにしよう」という言葉を吐いて最期に海を観に行こうというものです。

それをあえてぶった切ってラストに持ってきて、そこから今ヶ瀬が泣きながら他の男に抱かれているのと同刻に恭一は今ヶ瀬を待ち続けるという演出につなげるのは、結局あの海辺で恭一が今ヶ瀬を止めなかったことで二人の未来は途絶えてしまったということではないのかなと思います。

これは本当に自己解釈なのでなんか言ってるわ…くらいに聞いて欲しいんですが「花より男子」という漫画のキャラクターで西門という男の子がいます。彼は生粋の遊び人で、いつなん時でもいろんな女の子と遊んでいるっていう設定なんですが、その彼が唯一特別視して手も出さずに大事にしていた幼馴染みの女の子サラという子がいます。その子が意を決して西門をとある場所に呼び出すんですが、これまでの柔らかで暖かな関係性を崩したくなかった彼はその場に行かずに約束を無視します。約束を破った西門にサラは別れをつげ、そこから二人は会うこともなくなるんですが、いろいろあって時間を経て二人であの約束の場所に立ちます。お互いがお互いを大切に思いつつも、その時に西門が

「2年前のあの朝が 俺達の一期一会だったんだな」

という台詞を言います。そして二人は恋仲になることもなく、大切な人、という関係を選んで終わります。(花より男子35巻より)

人生というのはいろんな人や物事の歯車が噛み合って緻密に巧妙に回っていきます。何が一つでもタイミングが狂うとうまくいっていたものも少しずつ狂い始め、下手をすれば壊れゆきます。夏生の「ドブ」発言から始まり、たまきの出現により否が応でも第三者の目を気にしなければならない、好きの気持ちだけではままならない現実に追い詰められ続けた今ヶ瀬の壊れかけた心を真の意味で止められたのは他でもないこのタイミングしかなかったのではないかと。引き止めるならあの夜から海辺の瞬間じゃなくちゃダメだったんだな、とあの流れを見て思いました。

 

▼溢れ話

監督のお話で、たまきが来てからモノトーンの恭一の部屋が少しずつ青に染まっていくというものがあったんですがなるほど、たまき自身のコートが青なのをはじめランチョンマット、カーテン、鍋と青いものが増えていました。

カーテンを青に選んであげたのは、青が好きであろうたまきのためだったと思うんですけど、時間軸的に今ヶ瀬に会った後に受け取ったそれは箱から開封されることもなく床に置かれたまま。開封したたまきのために仕方なしに取り付けたカーテンを見て今ヶ瀬が「だっさい色」って言い放ったあと「本当にな」っていう恭一お前本当に…

別れたあと潔く全部撤去してまた今ヶ瀬の黄色い灰皿を中心に据えていたところ、お前、お前本当にそういうところ…って思いました。

結局何色にも染まる彼が選んだ唯一の色は今ヶ瀬だったんですね…

 

 

 

ものすごいこじつけマン&深掘りマンなのでいろいろ書きました。

結局ラストまでの時点でお互いの愛のかたちは、恭一は「向き合い、待つこと」であり、今ヶ瀬は「自分が去ること」だったんじゃないかと。

背を向けた今ヶ瀬に「なんでそこで逃げるんだ〜〜!!!あと一歩だぞ!!!恭一は恭一なりに頑張ってたんだぞ…!!!」という気持ちになってしまい…前回見た時以上にこの気持ちが強く出てきたのでびっくりしました。正直に言ってこれまでいろんな人にしてきた仕打ちを思えばラストの救えなさって自業自得というか身から出た錆というかザマアミロ言ってもいいんですが、全然そういう気持ちになれずに可哀想…彼なりに向き合ったのに…という気持ちにさせてくるところが恭一という生き物の恐ろしいところだと思います…まさにズルイ男たる所以…

 

二人とも揃って別ベクトルのクズだな〜!!お互いどこがいいんだ!?と改めて見て思いますが、好きになるって理屈じゃないので恋愛の難しさと救えなさをひしひしと感じます。

愛って…なんだ…どこからが愛の定義に合致するんだ…わからない…

とりあえずたまきちゃん、どクズと別れられて結局よかったから…君なりの幸せを掴んでくれ…頼む…

 

「個を愛すること」という点において真摯に向き合った映画だと思います。

とりあえず忘れないうちに思ったことを書き殴りましたが、ここまでいろいろ考えさせられる映画に出会えた幸福を噛み締めています。

 

あと二回くらいは観に行くつもりなので新たな発見ができたらいいなあと思います。